誰もやらないことに挑戦する。
かつての祖父のように。

(資)水谷商店

(資)水谷商店
三重県四日市市西坂部町3130-10
TEL:059-331-0471
https://www.banko.or.jp/tableware/mizutani/index.html

「焼き物にハマっちゃいました。
じいちゃんに乗せられて(笑)」。

萬古焼の大きな特徴は、ペタライトという鉱石の配合により、高い耐熱性を有する点にある。直火でも割れにくい性質から、土鍋の国内シェアは約8割を占める。そんな萬古焼の窯元として、水谷商店あおい製陶所は1946年に創業。現代表の水谷泰治さんは、複雑な形状の土鍋や、放射能の影響を受けた水の処理用陶磁器ブロックの開発など、“誰もやらないこと”への挑戦をモットーとする。

水谷さんに大きな影響を与えたのは、母方の祖父である故・水谷磊(たかし)さんだ。

「小さい頃、箸置きを1個つくるごとに10円のお小遣いをもらっていました。箸置きといっても、粘土のかけらをひと握りするだけ。お手軽なアルバイトです。それがすごく楽しくて、焼き物の世界に引きずり込まれました。いま振り返ると、じいちゃんにうまく乗せられていたのかもしれません(笑)」。

祖父の仕事は創造性にあふれていた。当時まだ珍しかった1人用土鍋を提案し、遠赤外線効果を引き出す火山灰釉薬もいち早く導入。型にはまらず挑戦する姿勢に、泰治さんは尊敬の念を抱くようになっていった。

大学を中退し、家業に入ったのは20歳のとき。祖父を手伝ってきた母は、「好きにしたら」と容認する一方、会社員の父は最後まで反対の立場を崩さなかった。「これからはITの時代だ。焼き物は衰退産業だぞ」と。そんななか、敬愛する祖父だけは手放しで喜んでくれたという。

自然光が降りそそぐ作業場。

[写真:左]柔らかな自然光が降りそそぐ作業場。スタッフの背後には、萬古焼名物の土鍋が所狭しと並ぶ。
[右]今はもう役目を終えている、レンガ造りの重油窯。「場所をとってしょうがない」と水谷さんは苦笑する。赤レンガの窯で現存しているもの非常に少なく、四日市市からも保存を求められるほど。

急転直下、23歳で製陶所の代表に。

祖父が亡くなったのは、泰治さんが働きはじめてから3年後のことだった。修行中の身であった水谷さんは、弱冠23歳にして家業を継ぐことになる。

「本当に急な病気でした。引き継ぎの時間もないくらい。技術面についてはまだ何も教わっていなかったし、じいちゃんが当時どんな案件を抱えていたかさえわからない状態でした」。

悲しみに暮れる猶予はなかった。仕掛中だった案件の対応に追われ、輪をかけるように追加受注も重なったからだ。文字通り、寝る間も惜しんで働いたという。

「夜中の2時までひたすらつくり続けて、翌朝4時に起きてまたつくり始める。それが半年? 1年? しんどかった記憶が強烈すぎて、いつまで続いたかさえ覚えていません」。

この苦しい時期を、根性ひとつでどうにか乗り越えた水谷さんはその後、萬古焼きの若きホープとして力強く前進していくことになる。とはいえ、あまりに早過ぎる独り立ち。経験不足は否めないはずだ。土台となるスキルはいつ、どこで身につけたのだろうか?

乾燥後のヤスリ掛け。釉掛けハサミという専用の器具で、食器を釉薬に浸す。

[写真:左]乾燥後のヤスリ掛け。食器を実際に使うときの口あたりを考慮しながら、縁の形状や質感を微調整する。
[右]釉掛けハサミという専用の器具で、食器を釉薬に浸す。手を汚さず、指の跡も残さず、全体にまんべんなく釉薬を施すことができる。

和食器を極めたい。技術と文化の両面から。

それは、祖父が亡くなる前後、20代における外部での修行の日々である。最初に通ったのは、三重県 工業研究所 窯業研究室。ここで1年間、焼き物の基礎を学んだ。なかでも「鉄釉」という、ゆっくり冷ますと斑点状の美しい模様が浮き出る釉薬に魅せられ、重点的に研究した。

技術を徹底的に磨いたのは、その後8年におよぶ弟子入り期間中である。仕事と並行して週2回、萬古焼の陶芸家・堀野証嗣氏のもとに通い、みっちり鍛えてもらったという。

「思い出深いのは、窯に40時間ぶっ通しで薪をくべつづけた経験です。5分おきに薪を放り込まないといけないから、丸2日近く寝られない。満足に居眠りもできない本当に厳しい仕事です。でもおかげで、ひと通りの技術を身につけることができました。師匠には本当に感謝しています」。

一方で、和食器をつくるには技術を学ぶだけでは足りない。そんな思いから、泰治さんは茶道教室にも通った。

「茶器の世界は奥深い。例えば、流派の違いによって、抹茶茶碗の土台部分の形状が違ってくるんです。表千家でいくか、裏千家でいくか。その選択ひとつが売れ行きを左右する。他にも、商社を通した場合とお茶の先生を通した場合でも、やはり売れ行きは変わる。商売の観点でとても重要なことを学びました」。

同様の理由から、書道についても理解を深めるべく、三重県書道連盟の役員に教えを請うことにした。

「残念ながら、大人になってから始めたところで、字が上手になるわけではありません(笑)。ただ、食器の裏側などに屋号を印字するための「篆刻」(てんこく)や、箱書きにあたっては、いろいろとコツがあるんです。ささやかですが、一生物の技術を習得することができました」。

水谷さん自らろくろを回す

惚れ惚れするような美しい所作である。最近は水谷さん自らろくろを回すことはほとんどないそうだが、快く実演してくれた。

難題に応える技術力と、型にはまらない発想力。

修行を重ね、製陶所の切り盛りにも慣れてきた20代後半、泰治さんはいよいよキャリアの充実期を迎える。特に力を注いだのが異業種との交流だ。

「味噌屋さんとは味噌ツボを。お茶屋さんとは地元のわたらい茶の急須を。隣の鈴鹿市の植栽組合と交流して、植木と鉢をセットにして販売したこともあります。コラボすることで新たな道が開けていくのが楽しくて。やりたいことにどんどん挑戦していた時代ですね」。

その後、四日市のメーカーからの誘いで、国によるJAPANブランド育成支援の補助金制度を活用し、萬古焼の鍋や酒器をつくった。このときのつながりが発展し、陶器を扱う米ガラスメーカーともコラボレーション。楕円形のグラタン皿を数千個つくる機会に恵まれた。それまで保有していたのは「ろくろ成形」の設備だけだったが、ちょうどその頃、液状にした陶土を流し込む「鋳込み成形」の設備を導入したばかりだった。この案件を契機に、楕円や四角などさまざまな形状の製品で実績を残すようになっていった。

2018年、水谷商店が製造を請け負った無水調理鍋は、メディアでも紹介されるヒット商品となった。組み合わせた型の数は4つ。誰もつくれないような最高難度の形状だった。

「この技術が認められて、それ以降は複雑な形状の依頼が続々と舞い込むようになりました。『ねじれご飯鍋』という、いま一番の売れ筋商品もそのひとつです」。

“誰もやらないこと”への挑戦は、泰治さんの代名詞になりつつある。東日本大震災の翌年に放射能汚染水処理用の陶磁器ブロックを発明し、特許を取得した。その後、この技術をカーボンニュートラルの取り組みへと展開し、二酸化炭素を固定化する陶磁器ブロックも考案している。

「素焼きした陶器が水を吸うことは、陶器屋なら誰でも知っている。それならスポンジみたいに空気層を増やせば、もっと吸うぞと考えたんです。使いみちを工夫すれば、萬古焼の活かし方はいくらでもある。まあ、人と一緒のことをするのが嫌なだけですよ(笑)」。

この創造性は祖父ゆずりかもしれない。ただ、それは泰治さんが独力でつかみ取ったものだ。祖父の死というどん底からはい上がり、力強く前へ前へと進んできた20年近くの歳月を抜きにしては語れないだろう。難題に応える技術力と、型にはまらない発想力を兼ね備える泰治さんは現在、萬古焼の可能性を広げる次世代の担い手として活躍している。“誰もやらないこと”に、これからも挑戦しつづけるに違いない。

ねじれご飯鍋

ここ最近で一番のヒット商品だという「ねじれご飯鍋」。釉薬に施し本焼きすると、素朴で温かみのある風合いに。

編集担当:汐崎 貴大

人並み外れた行動力の凄み。

焼き物というと「手」を使い、土と向き合うイメージ。でも実は、「足」を使い、人に会いに行くことが大切なんですね。技術を学びに行く。コラボレーション相手を見つけに行く。この人並み外れた行動力で、“誰もやらないこと”に挑戦するお祖父様のスタイルにたどり着いたのですね。

TOP