東陽精工(株)
大阪市東成区深江北3丁目12番29号
TEL:06-6981-2212
http://www.dctoyo.com/
ダイカストメーカーになぜかみかん箱。
工場の入り口でまず目に飛び込んできたのが、大量に積み上げられた段ボール製のみかん箱。中にはお客様から製造を委託されたダイカストの完成品が詰まっている。実は、こうした段ボール箱が生鮮品の運搬目的で使われるのはただの一度きり。同じ用途で再利用されることがないため、状態の良い箱を安く大量に入手することが可能だと言う。町工場とみかん箱とのギャップにまず驚いた。

[写真:左]そこかしこに積まれた山は、件のみかん箱と原料のアルミ。工場に到着するなり目に入るその強烈なコントラストに、取材スタッフ一同少々面食らう。[右]工場裏にある在庫置き場。知らない人が通ったら、誰もが青果業の倉庫と思うだろう。
中に入ると、いわゆる町工場らしい雰囲気が漂っている。粉塵とグリスが混ざった匂いや油で少しべたつく床、それにアルミ溶解炉が発する熱気はダイカストメーカーならではと言えるだろう。一方で、昔ながらの町工場の職人気質な雰囲気はあまり感じられない。スタッフ一人ひとりが若いのだ。従業員数は派遣・パートの方も含め約40名。平均年齢はなんと34歳。本社近くに新たに設立された第2工場は、町工場のイメージをさらに大きく裏切るものだった。最新の工作機械が整然と並び、若いメンバーがてきぱきと作業している。3年前からは大卒新卒の採用もスタート。会社の若返りは今後もさらに加速していくそうだ。

第2工場には、研磨や加工、表面処理の機械がズラリ。売上拡大に合わせて積極的な投資を行った。
「大卒生を採用するなんて私が入社したばかりのころには考えられなかったことです。当時の会社は本当にひどい状態でしたから」。そう振り返るのは、2012年に先代から経営を引き継いだ笠野晃一社長。いったいどんな紆余曲折があったのか。そこには、まるでドラマのような過酷な物語が待ち構えていた。
挨拶のない職場。
大量に届くクレーム。
大阪市東成区で1963年に創業した東陽精工株式会社。1974年にはダイカストマシンを導入してダイカスト事業に参入。下請け工場として大企業の厳しい要求にもなんとか応えてきた。創業者の孫である現社長は、最初から将来は自分が会社を継ぐと心に決めていたと言う。
「大学卒業後は、自動車用ダイカスト製造大手の株式会社アーレスティで1年間修業しました。熊本工場に行ったのですが、皆本当にイキイキと働いていて理想の職場だと感じたのを覚えています。その翌年、『さあ頑張ろう』と意気揚々と東陽精工に戻ってきたら、会社の現状を見て愕然としたんです」。
まず、若い人がいない。平均年齢もおそらく60歳は超えており、誰も挨拶をせず、片付けもしない。アーレスティのイキイキとした雰囲気とは真逆の淀んだ空気が漂っていた。機械の設定や管理も極めて属人的。鋳造条件について聞くと段ボールの切れ端に殴り書きされたメモを渡される、がミミズが這ったような字でまるで読み取れない。作業も標準化されておらずクレームも多発していた。「ものすごい量を返品されていましたから。納品した数より多いんじゃないか?ってくらい(笑)」。
そこで、まずチャレンジしたのがISO9001の取得。独学で勉強し、作業標準書やチェックリストを作成。どんな製品をどんな設定で作ったのか、とにかく記録する。写真を撮影し、その裏に鋳造条件を書いて保管する。率先して取り組んだが、ベテラン社員の行動や意識を変えることはできなかった。そんな折、東陽精工に大きな転機が訪れる。2008年、米投資銀行の破綻に端を発する世界同時金融危機、「リーマンショック」である。

整然とした戸棚の一角に、記録と確認の徹底を感じる。
アポイントの直前、
怖くて逃げ帰ったことも。
当時は案件のほぼすべてが同業からの下請け。しかし、リーマンショックで資金難に陥った取引先の多くが工場から金型を引き上げていった。つまり、もうその会社からの依頼は来ないということ。下請け仕事に頼っていては、未来はない。まったくの未経験だったが、新規営業にチャレンジした。ライバル企業の取引先を調べて片っ端から電話をかける。挨拶させてくださいとアポを取り、関西中を駆けまわった。しかし、「この図面おたくでできる?」と聞かれても即答できない。「何しに来たんだ」と冷たくあしらわれることも多かった。
「営業は本当に怖かったですね。あるとき、京都の会社のアポイントに伺った際に、約束より早く着いたので気持ちを落ち着けようと車で工場周りをぐるっと一周したんです。そうしたらもっと怖くなってしまって。なんと、アポに行かずに帰っちゃったんですよ(笑)」
心理的ハードルを乗り越えようと、様々な営業の本を読むうちに出会ったのが、青木毅氏が書いた質問型営業の本。「これだ!」と思った。勉強会にも通い、そこで出会った仲間と営業ロープレを繰り返す中で恐怖心も薄れていった。元々が下請け工場なので、顧客と直取引できるのなら見積もりはかなり安く出せる。少しずつ実績が積み上がり、売上も1年で1億以上伸ばすことに成功した。また、リーマンショックによる副次的な効果もあったと言う。
「多くの企業が業績を落とす中、うちは逆に伸ばすことができた。当時、職にあぶれた若い人も多かったので、人材募集をかけたらすぐ若い世代が採用できたんです。ベテラン社員たちは昔からのやり方を変えられなかったけれど、若い世代と一緒に新しいやり方に変えればいいと前向きに考えていました」。

[写真:左]ダイカストメーカーの命とも言うべき『金型』。下請け時代、目の前でこれを引き上げられたときの社長や従業員の心境は如何ほどのものだっただろうか。[右]大きなプレス機に据えられた金型に、熱で溶かした液状のアルミニウムが注がれ、一瞬で形作られる。巨大な鉄の塊が、規則的にキビキビと動く様には目を奪われる。
経営理念が会社を生まれ変わらせた。
リーマンショックから3年後、2012年に社長に就任。その後も、精力的に新規営業をつづけ、社長就任時2億円だった売上は1年ごとに1億ずつ増えていった。順風満々に聞こえるが、内情は決してそんなことはなかったと言う。
「売上が増えて、現場は猛烈に忙しくなりました。製造課しかなかった工場に、品質管理課、生産管理課、加工課、営業課という5つの課をつくり、外から引っ張ってきた若い子をいきなり役職者に据えた。社員数10人の会社に課長が5人いるという、なんともいびつな組織状態。そこに違和感を覚えつつも、新しい仕事の受注を優先して、私はずっと営業に出ずっぱりでした」。
その違和感は、顧客からのクレームというかたちで表出する。丁寧な教育を受けることもなく役職を与えられた社員たちはどんどんわがままになり、「こんな納期は無理ですよ」と社長にも堂々と文句をぶつけてきた。結果的に、約束した納期や品質を守れず顧客からのクレームが頻出したのだ。社長の本来の仕事は経営のはずなのに、自分は営業しかやっていなかった。自分が変わらなければ会社は変わらない。その強烈な危機感が、笠野社長を、そして東陽精工を一変させることになる。
当時の会社には就業規則すらなかった。ルールや福利厚生を整備することからはじめた。総務課をつくり、新たに採用した女性社員と共にルールの順守を徹底させた。そして何よりも会社変革の伴となったのは、経営理念を定めたことだ。
「会社は何のために存在するのか。目的を明確に定めたんです。そこに共感できない人には辞めてもらった。新たに人材を採用する際にも、その理念に共感してくれる人しか採用しないと決めた。結果的に、会社の雰囲気が少しずつ変わっていきました。10年前とはもうまるで別の会社です」。
町工場のロールモデルになりたい。
下請け仕事を辞め、顧客との直取引に舵を切った当初、顧客に選ばれる理由は価格競争力だった。しかし、今は決して安くない。それでも選ばれつづけている理由は何か。
「きっと『若い社員が多い』とか『最新の機械に投資している』とか、そういう理由だと思うんです。ダイカスト業界は3Kだと思われていて、なかなか若い人が集まらない。暗い雰囲気で挨拶が無い会社も少なくない。そんな中で、今のうちみたいな会社は珍しいし『将来性がありそうだな』と思ってもらえているのかもしれません」。

笠野社長が『当社自慢の精鋭部隊』と胸を張る検品課の面々。集中して作業する室内に入ると、若干の緊張を感じた。
笠野社長が理念に掲げるのは、『全従業員の物心両面の幸福の実現』。まだ道半ばではあるけれど、『工場もきれいで、働き甲斐があり、休みやすい。良いお客様に恵まれ、ステークホルダー全員とありがとうと言い合える会社』をつくっていきたい。そして、そのさらに先にもう一つ大きな目標を見据えている。
「自分たちが理想とする会社を目指すと同時に、そうした会社づくりを他の町工場にも広げていきたいんです。うちも、10年前は本当にひどい会社だったけれど、社長自身が思い切って変化を受け入れることで、会社もここまで変化した。ダイカスト業界はいまだに『きつい』、『汚い』、『危険』の3Kだと思われているけれど、そうした業界のマイナスの先入観をひっくり返す一助になれたらと思っています」。

東陽精工(株) 笠野晃一社長

編集担当:北野 秀樹
ともに営業を学んだ仲間でもあるんです
実は東陽精工の笠野社長は、質問型の営業をともに学んだ同志のような存在。ある時期は毎週朝6時から、オンラインでパソコンを繋いで営業のロールプレイングをしていました。そんな笠野社長が経営する東陽精工さんは、リーマンショックの荒波を乗り越えて、今も右肩上がりの成長をつづけています。そうした躍進の秘訣に迫りました。