慧敏な経営者は、
愚直な研究者。

(株)三彩

#08 (株)三彩
滋賀県甲賀市信楽町長野763番地
TEL:0748-82-3131
http://bunpuku-tonchinkan.com/

信楽で異彩を放つ陶器メーカー。

1970年創業の株式会社三彩は、日本六古窯にも数えられる信楽において、常に新しい製品・製法に果敢に挑戦してきた陶器メーカーだ。工場前の広場には、その挑戦の証ともいえる光景が広がる。高さ1メートル超、容量1,000リットルの巨大な「かめ壺」に、微細な気泡を発生させる「陶器風呂」。トライ&エラーを繰り返してきたいくつもの試作体が、どっしりと佇んでいる。

「これほど大きなものを一体成形するのは簡単じゃない。どうやってつくるかは企業秘密です」。焼酎の仕込み工程で使われるかめ壺の前で、製造部長の守岡さんがにっこりと微笑む。「できたてのお酒は分子構造がバラバラ。でもこの壺で寝かせると、水分子がアルコール分子を包みこんでいく。口当たりがまろやかになるんです」。

現在の三彩は、酒造メーカーや建築家をはじめ、陶器の可能性に注目するビジネスユーザーから厚い信頼を寄せられ、BtoBの領域で存在感を放っている。この独自のポジションを築いたのが、創業者で取締役会長の上田和弘さんだ。常識にとらわれない柔軟な発想で、ヒット商品を次々に生み出してきた。一体どのような歩みを経て今があるのか話をうかがった。

[写真:左]鋳込みから40分。石膏型を外すと、4ミリ厚に成形された美しい素地が姿を現す。[上段中]焼酎のボトルに模様づけをする工程。ブリキのヘラのようなもので、あっという間に規則的で美しい文様が刻まれる。

信楽じゅうの土を調べ尽くし、
釉薬をデータ化した学生時代。

上田会長は昭和13年生まれ。3歳の時、戦争が始まった。「子どもの時分から、食べることにはずいぶん苦労してきました」。当時の暮らしぶりをそう振り返る。戦後は、信楽の火鉢は国内シェアの8割を占め、火鉢を売れば儲かる時代だった。その波に乗ろうと上田の父も、自宅に小さいながらも登り窯を作った。がしかし、元来の人の良さからか焼いてもあげてしまうなど、儲かる周囲を尻目に、上田家の商売はからっきしだった。そんなひもじい生活が続く中、信楽に高校ができた。元々教師だった父はそこで先生をやることになり、ようやく生活は安定したという。

そんな苦しい生活の中でも次第に焼き物にのめり込んでいった上田少年は、ある時父親からこう言われた。「信楽じゅうの山を全部歩いて、どこにどんな土があるか調べてみろ。そして、土が乾燥した時の収縮率、焼いた後の収縮率、色はどう変わるか、記せ」。言われるがまま、2年かけて調べ尽くした。それらをまとめ上げて発表したところ、卒業式でなんと、その功績を讃える表彰状を国からいただいた。「ものすごく嬉しかった。ここから自分が変わった」という。「父には本当に感謝しています。今でも、信楽の土なら何でもわかりますから」。上田少年の研究者としての原点がここにある。

中学卒業後は多治見にある焼き物の高校に進学。今度は釉薬にのめり込んでいった。「行き着くところは化学と物理。データ化できたら勝ちだなと気づいたんです。そこで、下宿先にいた釉薬屋の息子と仲良くなって、データを書き写させてもらった。2年間ずっと。本当に地味な作業。でも毎日毎日楽しくてね。このデータも宝物ですよ」。上田少年、研究者としての第2ステップである。作品づくりにおいても持ち前の器用さを発揮し、高校2年生で岐阜県のチャンピオンに。3年生で先生と同じ展覧会に応募するようになった。

(株)三彩 取締役会長 上田和弘

上田会長。三彩と自身のこれまでを大いに語っていただいた。
御年83歳。その語り口は快活で淀みが無い。

ただでは倒れない。
発想の転換で勝負。

その頃、たまたま風呂屋の大将から相談を受け、銭湯の湯出し口の彫刻を頼まれた。職人が大きな予算でしか承けない仕事を、学生上田は安くで引き受けたのだ。それでも当時の高卒給料の半年分という大金だった。ビジネスの嗅覚を感じるエピソードである。こちらは経営者としての原点と言えるかもしれない。そのギャラは高価な釉薬の専門書購入につぎ込んだ。その本は、未だに現役で活躍している。

高校を卒業した上田青年は、信楽の大きな窯元で働きはじめた。あれほど隆盛を誇っていた火鉢は売れなくなっていたが、今度は植木鉢や置物といったいわゆる“庭もの”が流行りつつあった。それに伴い、急激にニーズが高まってきたのが“絵付け”だ。だが信楽には絵描き職人がたった3人しか居なかった。上田青年の動きは早かった。「私は絵を描けませんでしたが、釉薬は自分でつくれる。ようし!描けるまで練習や!と。廃棄される火鉢や植木鉢を会社から貰って帰って、毎晩家で絵付けの練習をしました」。そして1ヶ月位で絵付けをものにし、会社を辞めて独立。絵付けの事業を軌道に乗せると、それまで7千円ほどだった月収は一気に20万円にまで増加。ようやく不自由のない暮らしができるようになった。

とはいえ、楽観視はしていなかった。「火鉢に代わってストーブが出てきた。植木鉢はまだ売れるけど、安くて稼げない。この仕事は長くは続かないぞ」と。過渡期を迎えていた焼き物業界を注視している中で、次に狙いを定めたのが、庭ものブーム後半に登場した小便小僧の置物だった。しかしそのかわいい外見とは裏腹に、不良率が非常に高いのが難点。通常の焼き物同様に登り窯の中に人形を直立させながら焼成すると炎の回りにムラが生じてしまい、10体つくっても1体しか売り物にならないのだ。しかしそこで諦めないのが上田会長である。「これを百発百中でつくれたら、どないなんのやろな?って。考えるとワクワクしました」。試行錯誤を繰り返した末、焼き方そのものを変えた。1体ずつの電気炉で、人形を斜めに傾けながら焼成する方法を考案したのだ。炎ではなく熱を、ムラなく均一に当てることで、成功率は8~9割に跳ね上がった。売れる商品を効率的に作れるようになった結果、小便小僧は以後20年間にわたって三彩の主力商品の座を担いつづけた。

水漏れしやすい弱みが、
あら不思議。強みになっちゃった。

その後も上田会長は、マーケットのニーズを的確にとらえ、いくつものヒット商品を生み出していった。多治見で学んだシルクプリントを活用した高級観音鉢。水漏れしない土を開発し実用化にこぎつけたギフト用の大型花瓶。さらには、傘立ての量産を可能にするろくろ成形機までも自ら考案。型にはまらないアイデアの数々で、しだいにより高度な技術が求められる“大物づくり”を依頼されるようになっていった。現在、三彩の看板商品にもなっている「陶器風呂」がその代表例だ。

[写真:左]信楽焼と言えば狸の置物だが、こちらは狸の器。三彩が営む直売店・狸家分福で食べることが出来る、名物・狸うどんで使われている。まん丸の目玉が愛くるしい。[右]傘立てのろくろ成形での仕上げ工程。馬かきという小道具で表面を粗く削る。手仕事ならではの味わいが刻まれる。

「ふつうの浴槽じゃ価格競争に陥る。でも、うちのはそうならない。微細な気泡、いわゆるナノバブルを発生させる浴槽だからです。入浴剤がなくても乳白色の湯になるし、体が浮くような感覚に包まれます」。自身のアイデアを注ぎ込んだ自信作について、上田会長は楽しそうに語る。「信楽の土は粗くて、水漏れしやすい特性があります。その弱点を逆手に取ったんです」。ポイントは、浴槽を2層構造にしたことだという。外側には水漏れしない土を使い、浴槽としての基本性能を担保。信楽の水漏れする土は内側に使い、空気を強い圧力で送り込んだ際にナノバブルを発生させる。「この技術で特許も取得しています。今はこれくらい高機能じゃないと売れへんから」。生き生きと話すその表情が印象的だ。

窯業は一番ほっとかれている産業。
まだまだ可能性だらけ。

変幻自在とも思えるアイデアの数々は、一体どこから湧いてくるのだろうか。上田会長の答えはシンプルなものだった。「とにかくいろんな経験を積んで、自分自身が楽しむこと。こんなんあったらええなと、いつも夢を見ること。そんな心持ちでいるからこそ思いつく。もちろん、いい商品を開発しなきゃ食えなくなるという危機感も、ないとは言わへんけど。危機感でアイデアは湧いてはこないから」。上田会長の言葉は終始ポジティブだ。焼き物の市場は頭打ちの状況がもう何年も続いているが、それを悲観している様子もない。「この業界は、現代において一番ほっとかれている産業なんです。イノベーションを起こそうとする人がいない。でも私はこれほど面白い産業はないんとちゃうかと思っています。化学やテクノロジーとの掛け合わせ次第で、まだまだ可能性があるんとちゃうか? きっと未来は明るい。そう思ってるんです」。上田会長は今日も信楽の地で夢を追う。そしてきっと、誰よりも楽しんでいる。

編集担当:小野 茂

アイデアマン上田会長、その原点に迫る!

80を越えて尚、前向きに今を楽しみ挑戦し続ける上田会長。戦後の大変な時代を乗り越え、築きあげてきたその歩み・実績には、大きな説得力がありました。これからも、そのチャレンジを担当営業として、上田会長のファンとして追って参りたいと思います。

TOP